平田王子 フェリース 1111 ライヴ 3rd CD《マイ・ジョアン ~デュエッツ~》発売記念
2008年8月7日(木) at 赤坂ノーベンバー・イレブンス 1111
【出演】
- 平田王子(vo,g)
- 加藤崇之(g)
- 松風鉱一(ts,cla,fl)
- 宮野裕司(as,cla)
- 渋谷毅(el-p)
- 大澤基弘(ds,perc)
ボサ・ノヴァが生まれて今年で50周年だとか。ただそんなタテマエも我関せず、先頃の《マイ・ジョアン~デュエッツ~》では心を寄せる奏者とのデュオで、自らが思う独特のボッサ・ワールドを拓いてみせた平田王子(きみこ/vo,g)。相手は見るからにクセ者ばかりで、どれも中央線あたりで幅を利かせる老獪なジャズ・プレイヤーたち。この取り合わせに唖然としつつサウンドは絶妙な摺り寄りをみせて、奇跡的に芳しい香りを放っていた。あなどっていたこちらとしては、素晴らしくロマンティックで、情念的で、ちょっと淫靡な仕上がりに素直に驚いてしまったものである。
5人のゲストそれぞれとのデュエットという形態であるから、これは贅沢にすぎる。贅沢すぎた分、再現ライヴというのがなかなか実現できずにきた。それがオリンピック開幕前日に“一夜限りの”と銘打ち、赤坂一ツ木通りにあるイタリアン・レストランでその無謀をやってしまうというのだ。近場では盛大な花火大会の狂乱。CO2の大量排出の饗宴もよそに、取るものも取りあえず駈けつけたわけ。
恐らく集まった多くは平田のやる清楚なボサ・ノヴァの、根強いファンたちであったろう。日ごろ穴蔵のようなジャズ・クラブで死闘を演じる今宵ゲストたちにとって、そんな善男善女に囲まれての演奏は少々お洒落すぎたに違いない。緊張気味に平田と並行してマイクへ向かったのは、まず加藤崇之(g)である。何げなくして遊ぶような平田のギターの爪弾きに、チューニングでもするようにつき合ってみせる加藤。それがどこか異国風のエキゾティズムに収斂していくと、機をみて輝かしいハーモニクスを一発。場の空気をそれで一変させた。
哀感をまとったわらべの鼻歌のような、心しめつけられる忘我のゆらぎ。〈川の流れ~水鏡に映ったある日〉。日頃はノイジーでフリーキーなパンク風ジャズを本領とするこのギタリストが、平田の発する幼子らしい声に滴るような室内楽的オブリガートを加える。初めはそこに信じられぬ思いがあり、始まったのがまさかこの曲であったかというはぐらかしもある。タンゴでもやるような情熱的ルバートが〈波〉になったり、夢見るヴォイスに纏いつく丸く愛らしい単音ソロも、冴え渡るファルセット・ヴォイスに輪をかけて咽び泣くヴィブラート・タッチにしても、じつに情趣ある感動的ドラマを連続してみせらつけられる。
そんなコンビネーションの極まりは、加藤が平田に書いて贈った〈マイ・ジョアン〉に訪れた。心の襞をひとつずつ押し開いていくような際どく抑制されたギタリズムに、平田のヴォイスはゆっくり解放され、色を変え、淡く温もりを蘇らせていく。このドキュメントを聴き逃したなら今夜は浮かばれまい。
アルバム作りは加藤がこのボサ・ノヴァ歌手に、一部こだわり派から熱烈支持されるアーティストらを紹介したことに端を発する。松風鉱一(ts,cla,fl)とはことに気が合ったらしく、この共演に抱えてきた不安をひとつひとつ解決してくれる心強いパートナーとなった。「音楽の中に凄く大きな風があって、そんな松風さんの醸す気流の中で旅をしているようだった」と平田は告白する。松風のクラリネットは、始終かすれきったサブ・トーンを駆使される。それはシザリングという高度技法で、ほとんど信じられないこの省音サウンドをして、平田のフェアリー・ヴォイスとの静かなランデブーを楽しんでみせるのだ。
作品には入らなかったけど、と紹介されてはじまった〈ドント・ノー・ホワイ〉の女性らしいウィスパリングには、持ちかえたテナーでより微量にして、粟の粒立ちのようにぷちぷちとした合いの手を入れる。もはやそこに輪郭もなく、霞のような音響だけがレストランの隅々にまで行き渡っていた。これはよっぽどの使い手にしか表わし得ない、達観した宇宙観に違いなかった。
淡々としながら雄大に、祈りを込めるような平田のオリジナル〈あい色の蝶々〉はなかなか大した秀曲である。込められた心情は広島生まれの自身のアイデンティティであると言って、忌まわしい原子爆弾の悲惨を思うこの時期らしくクライマックスに選んでみせた。松風はフルートに思いを託し、宮野裕司(as,cla)と大澤基弘(ds,perc)も演奏に加わって、ボッサにしては大陸的で情熱的なスキャットを雄々しくバックアップする。
宮野とのデュオが楽しいのは一切のスウィングがなく、凍りつくほどクールな音感をボサ・ノヴァに添えてみせるあたりか。それはフランス映画でも鑑賞するような気怠いまどろみを、どこかぎごちなさを伴うザラつきある陶酔感でまとめてくくった仕様。〈プラ・マシュカール・メウ・コラサォン〉はそんなひとつの昇華ぶりをみせていた。名づけて“悩殺クラリネット”とは言いえて妙。次のバラッド曲〈デュオ〉ではヴォイスと宮野のアルトによる心許ないユニゾン・スキャットも極まって、ボッサ好きにはこれぞ堪らぬひと時が演出される。
「ホールドされ、ハグされたような気持ちになれます。だから演奏中はずっと宮野さんの腕の中にいる感じ」と、平田は意味深長なことを言う。ただ確かに音楽的にそんな信頼感で結ばれていることは十分伝わっていた。そのステージに、次は渋谷毅(el-p)が呼び上げられた。平田にすればアルバム作りのきっかけに渋谷との東北楽旅で得た手応えを挙げるが、渋谷はあっさりしている。「加藤さんと松風さんと宮野さん……それで僕は分かったというか、そこに既にひとつの色があったんだ。彼女がそれを気づいていたかどうか分からないけど、これはなかなかいい企画なのじゃないかとね」。
平田のアルペジオは静かだが情熱的で、これに逆行させて応えた渋谷の優しいピアノの重なり。やがてうっとりするように抑制されたヴォイスが現れる。〈Imagim〉は決して昂ぶることなく、なのに牽制気味に綾をなす両者の音の交錯で気持ちはたまらず引き上げられている。そこにはどんな音楽理論書にも載らない、ごく単純でプリミティヴなマジックが作用していた。〈イパネマの娘〉においても静かな歌に続くピアノが、何の意図もなく作為もない最少音を最大の創作物として生み落としてしまうのである。聴いたこともないなまめかしさにアルコールの酔いも手伝ってか、どのテーブルからもふいと溜息が漏れた。
よくあるフレイズがちょっとしたタイミングで光り、単なるコードの流れが添えられた1音に輝きを増すことがある。最終曲となった〈音楽の理由〉はまさにその賜物で、確かに平田のヴォイスはそんな伴奏音の上で魅力的にそよいでいた(渋谷には珍しくコーラスを加えたのには驚いたが)。思えば演奏は始終静かなままで、それは最後の1音まで貫徹された。果たしてこんなライヴは、ジャズでなくてもやはり珍しいものだったに違いない。終わって立ち昇った拍手や歓声の大きさに、忘れかけていた現実側の世界に心地良く引き戻されていた。
【取材】長門竜也 【撮影】遠藤実香